九州において血で血を洗う抗争を繰り広げた「道仁会」と「浪川会」。このたび、両組織の首領が渡世から引退することとなった。全国にも名を轟(とどろ)かせる大物ヤクザたちの退場は、ヤクザ業界の勢力図を一変させる可能性をはらむ。 福岡県久留米市に拠点を置く道仁会は地元団体が糾合して1971年に結成され、熊本や長崎にまで勢力を伸ばす九州の一大組織だ。1986年には九州の山口組との「山道抗争」が勃発し、警察官や少年ら無関係の市民も巻き添えで撃たれるなど苛烈な戦いが繰り広げられ、9人の死者を出した。県警の介入によって両組織が抗争終結の誓約書を提出し、87年3月に九州中の親分衆が臨んだ手打ち式によって戦いの幕を閉じたが、山口組と互角に渡り合った組織として全国に認知された。 ■工藤会の市民襲撃事件の傍らで そして、2006年に二代目の松尾誠次郎会長が引退を表明して、三代目を大中義久会長が襲名したことに当時の最大組織だった村上一家などが反発。新たに九州誠道会を結成し、道仁会は九州誠道会の最高幹部らに絶縁処分を下し、戦いの火ぶたが切られた。 当初は九州誠道会幹部が殺害される事件が相次いだが、2007年8月18日に福岡市中央区の路上で、乗用車から下りた大中会長を九州誠道会のヒットマンが銃撃して殺害。トップを殺されて復讐に燃える道仁会は四代目に小林哲治会長が襲名。独立団体としての存亡をかけた九州誠道会は、08年に浪川政浩会長へと代替わりして、九州各地で組員の殺傷事件を引き起こした。 07年11月には、佐賀県内の病院に入院していた板金業の男性(当時34)が、九州誠道会組員と間違われて道仁会系組員に射殺されるなど、市民にも銃口が向けられる事態にまで発展した。当時の状況について、地元記者が振り返る。 「当時はちょうど工藤会が市民襲撃などの事件を繰り返していた時期で、そちらに手一杯の福岡県警は両組の抗争事件を食い止めきれなかった。県警が間に入って幾度か手打ちに向かった時期もありましたが、それを不満に持つ古参組員が事件を起こし、その復讐が行われて終戦工作が頓挫するといった具合にエスカレートしていきました」 ■78歳組員がマシンガンを手に突入 2011年には、小林会長宅に九州誠道会系でマシンガンを所持した当時78歳の組員がはしごを伝い塀を乗り越えて庭に侵入。邸宅から出てきた組員を2丁拳銃で銃撃して手りゅう弾を爆発させるという衝撃的な事件も起きた。 そして、2013年6月11日に九州誠道会が久留米署に解散届を提出し、道仁会は抗争終結の宣誓書を提出。九州誠道会の消滅によって抗争は終わったかのようにみえたが、10月には浪川会長をトップに浪川睦会が発足。15年に浪川会と改称し、いまも厳然として組織は存在している。 「両組織は2012年に改正暴対法による初の特定抗争指定団体となり、活動が制限されました。これを解除するために両者で話し合われ、九州誠道会の偽装解散という体裁をとったということです。 道仁会としては、離反した浪川会長の一派がヤクザとして渡世に残ることは承服しがたいが、いったん九州誠道会を解散させることで一定のメンツを保つという苦渋の判断だったとみられます。 とはいえ、小林会長が被告として出廷した刑事裁判に浪川会長が傍聴に訪れるといった友好ムードをみせる場面もあり、個人的なわだかまりはかなり和らいでいたのでしょう。14年には特定抗争指定は解除されましたが、警察は警戒を続けていました」(実話誌記者) ■14人死亡も「平和を希求」!?