10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の’94年6月17日号掲載の「『目の前に犯人がいた』本誌カメラマンが目撃した〝細川狙撃〟の一部始終」をお届けする。 ’93年8月、自民党の55年体制崩壊後に誕生した細川護熙氏(当時56)の日本新党など8党派の連立政権として誕生した細川内閣。発足直後は70%前後の高い支持率という人気ぶりだったが、細川氏が佐川急便からの借入金返済問題を追及されるなどして、4月25日にわずか9ヵ月で総辞職した。その後、細川氏は都内のホテルなどを転々としていたとされ〝雲隠れ〟状態に。久しぶりに姿を現した公の場で、その事件は起こった──。(以下《 》内の記述は過去記事より引用) ◆「パーン!」とクラッカーをならしたような大きな音が 5月30日、東京・新宿の京王プラザホテル5階で開催された日本新党東京の設立記念パーティ。会場での細川氏は〝隠遁生活〟の疲れを見せることもなく、党代表の座に留まる意欲を示すなど、きわめて意気軒高だったという。 《そんな細川氏の表情をとらえようと会場に乗り込んだ本誌カメラマンは、SPに囲まれて移動する前首相に向けシャッターを切り、玄関ホールに先回りして、別角度からの写真を狙っていた。 やがてエレベーターのドアが開き、前首相が出てくる。「パーン!」というクラッカーを鳴らしたような、大きく乾いた音がしたのは、前首相が出入り口の数メートル手前に近づいた時のことだった。 3~4人の警備陣が弾かれたように1人の男に向かって走り出す。反射的に後を追うと、目の前に組みしかれようとしている犯人の顔があった。「押さえろ、押さえろ!」と怒号が飛び交う中、何度もシャッターを押す(写真)。 「銃はどこにある!」の殺気だった声に、1人が犯人の手から凶器の拳銃をもぎ取って内ポケットに入れ、「ここにあります!」。時間にして1~2分の逮捕劇だった。》 逮捕されたのは元右翼団体幹部の男。調べに対して男は「(細川氏の)侵略戦争発言などで頭にきてやった」などと供述していた。報道では犯人の男は玄関ホール真上の天井に向け、威嚇射撃のように1発を発砲したと報じられたが、細川氏は事件の翌日、その時の状況を海江田万里議員にこう語っていた。 《最初、犯人が自分に銃を向けて構えるのが見えた。あっ! と思った瞬間、銃を上に向けて撃ったのがわかりました。そりゃ、恐かったですよ》 事件後に渋谷区の私邸で報道陣に応対したときは相変わらずのポーカーフェイスだった細川氏だが、内心はやはり肝を冷やしたようだ。だが、永田町界隈では「事件は細川氏にとって追い風になる」という見方が出ていた。 《このままいけば6月11日の全国代表者会議前に、日本新党から10人近い離党者が出ると思われていた。が、発砲事件によって党内の細川擁護論が高まり、離党しにくい状況が出来てしまった。これで細川の党代表再任は決まったも同然(政治部記者)》 政治生命の危機を脱したかに思われた細川氏だが、相変わらず自民党は佐川急便からの借入金問題で細川氏を国会の証人喚問に引きずり出そうと虎視眈々と狙っていた。暴漢の弾丸には当たらなかったものの、細川氏は最大野党自民党の格好の〝標的〟だったのだ。 細川内閣のあとを受けた羽田孜首相だったが、社会党が連立政権からの離脱したことで、少数与党となってしまい、6月に細川氏は国会で証人喚問を受けることになる。だが、自民党は細川氏を総理の座から引きずりおろしたことで目的を遂げたのか、それ以上借入金問題を追及されることはなかったようだ。その後、羽田内閣もわずか2ヵ月で総辞職。代わって政権を獲ったのは、これまで最大の政敵同士だった自民党と社会党が手を組み「ウルトラC」といわれた自社さ連立政権だった。 ’98年に細川氏は還暦を迎えたことを区切りとして、政界を引退した。’14年に小泉純一郎氏の推薦を受けて都知事選に出馬し、舛添要一氏に敗れて落選したこともあった。だが細川家当主として財団法人永青文庫の理事長をつとめるほか、主に茶人、陶芸家として活動している。展覧会やオークションに自らの絵を出品し、収益をウクライナ支援のために寄付することもしているようだ。だが、政治との関わりを一切断っているわけではなく、未だに現役国会議員から面会の申し込みもあるという。